音楽好きの世迷い言
The melody at night, with you
発達障害と向き合う②〜息子編〜
2017-08-11-Fri  CATEGORY: コラム
息子が入院したNICUには色んな子がいた。


未熟児や、なんらかの障害を持って生まれてきた子が、ベビーベッドというか透明な容器のようなものに寝かされ、泣いたりもぞもぞ動いたりしていた。みんな一様にとても小さかった。身体にはたくさんの管がつなげられており、時折アラームが鳴るのでドキッとする。愛おしそうに透明の容器の我が子を見つめる母親が何人かいた(実の両親しか中に入ることができないのだ)。そんな中に、うちの息子も寝かされていた。


息子は小刻みに震えながら寝ていた。無呼吸の発作を抑える薬を飲み、症状が落ち着いてきたとのことだった。非常に音に敏感で、アラームが鳴るたびに目を覚まし、その方向をなんとも言えない顔で見つめていたのを思い出す。このときは、「息子が生きてさえいてくれるならそれでいい」と思っていた。けれども、人間というのは時が経つにつれて、健康という当たり前に慣れるにつれて、初心を忘れ、多くのことを望んでしまうものなのだ。



1歳になった頃、それは顕著になり始めた。



自分に気に入らないことがあると、ひっくり返って大暴れする。私がひっくり返って、と書いたらそれは文字通りひっくり返るのだ。突然自分でスッ転んで、床に頭をガンガン打ち付け、大泣きする。まだ言葉を喋れないので、泣くことだけが表現手段のはずなのだが、うちの子はとにかく身体全体を使って暴れた。



子どもが歩けるようになったら、手をつないでよちよち歩く我が子と散歩するのが夢だった。



しかし、家の外に連れ出すと、息子は私の手を振りほどき、覚束ない足取りで自らの意思で走り出した。危ないからと無理矢理手をつなごうとすると例のごとくひっくり返ってアスファルトに頭をぶつけようとする。こんな有様なので散歩は夢のまた夢(Formula 3)であった。他の親子が、テトテト歩く小さな子どもと手をつないでいるのを見るとチクリと心が痛んだ。


パニックもひどかった。スーパーに行くとお年寄りが「可愛いねえ」と声をかけてくれる。嬉しがる親もいるだろうが、我が家はノーサンキューである。息子は知らない人に話しかけられるのが苦手で、その瞬間にひっくり返って大泣きする。おばあちゃんは当惑して行ってしまう。ひどいときは同時にストレスでよく吐いた。家で吐き、スーパーで吐き、車で吐いた。公園で吐き、道端で吐いて、外食先で吐いた。そのうちにこちらも慣れるもので、いつでも吐しゃ物を受け止められるよう我々は袋を常備した。コストコ多摩境店に行ったときは大変だった。おもちゃ売り場から離れたくないと大騒ぎして泣き叫びながら商品が陳列された棚の中に隠れてしばらく出てこなかった。勿論、吐いた。安く買えるホッドドックを食べてる途中に床に落とし、「それを食べたい」と泣き叫んで暴れ、激混みのフードコートで吐いた。周りの視線が痛かった。どう見ても、普通の子どもではない。私は我が身を振り返りつつ息子の発達障害を疑った。


1歳から3歳半までの2年半は本当に大変だった。


あの時期の子育てをもう一度やれと言われたら、やれる自信はない(だから2人目なんて恐ろしくてとんでもない!)。アンパンマンの映画を見せに行く。5分と座っていられない。劇場から逃げ出し、連れ戻すと癇癪を起こして泣き叫んでひっくり返り、結局ロビーでお菓子を食べさせておしまいだ。1000人収容のホールは無料イベントということもあって子ども連れで満員だったが、逃げ出したのはうちの子ただ1人だった。

近所の幼稚園のプレ保育に通わせたが、うちの子がダントツで問題児だった。とにかくいつも癇癪を起こし、ひっくり返って泣き叫んでいた。おもちゃを取られた、お菓子を食べられた、足を踏まれた、自分が先に遊びたかったのに、、などなど、些細な理由で彼なりの怒りを爆発させた。勿論、吐瀉物付きだ。


他のママ友からの強烈な視線を浴びながら、それでも妻は強靭な精神力で息子を育てた(というか天然なのだ)。公民館で読書会や劇があれば厭わず連れ出し、息子を周囲の大人や子どもたちに慣れさせようとした。私は早い段階で息子の発達障害を疑っていたので、反対する妻を説得して自治体の発達センターに連れて行った。2歳半の時点で簡単な検査では運動能力以外の能力がほぼ1年遅れとのことだった。これから保育園を探さねばならない。こんな状態でまともに通えるのだろうか、と私は毎日思い悩んだ。



結論から言うと、保育園には落ちた。



小児科医のところに行って、「多動」という診断をもらい(ほぼこちらが言うままに書いてくれる)、障害児枠で保育園に申し込んだ(障害児を受け入れる保育園には加配があるのだ)。しかしながら、落ちた。嫁の仕事がフルタイムでないということで点数が足りなかったのだ。障害があるかもしれないのに、落ちたのだ。まさに、「保育園落ちた日本死ね」である。ちょうどあのニュースの頃で、なんて日本は住みづらいんだろうと思った。こんなうちの子を普通の幼稚園が受け入れてくれるとは思えなかった。




その頃から、職場では私に対するパワハラが苛烈さを増し始めた。




2年前の春、完全な窓際部署に左遷され、私と主任の机の隣りには業務用の特大のシュレッダーが置かれた。あまりにもデカくて強力なため、特別に電源の増強工事をしなければ使えないシロモノである。私のいた支所は秘匿文書が多いので、毎日多くの人間がひっきりなしに書類を処分しにくる。その度に「ズゴォォォォォォ」というもの凄い音が我々のデスクの周りに鳴り響く。落ち着いて仕事などできるものではない。背後にはコピー機が2台。両面コピーする「ガターンザザー」という音がとても気になる(私は音に敏感なアスペルガーなのだ)。


おまけに元は倉庫だった部屋の壁を撤去して無理矢理作ったスペースのため、エアコンの冷気が届かない。夏は猛烈に暑く、冬はメチャクチャ冷える。春先は窓を開けるのだが、なぜかみんなフロアの端っこの我々近くの窓を開けたがる。そのせいで夜になると大量の虫が机に飛んでくる。蚊もスゴい。電気式の蚊取り線香の購入をするように予算の打診をしたほどだ。さらにはパソコンのLANケーブルもデスクには届かないので、不細工に延長ケーブルが伸ばされ、昭和のつり下げ豆電球のように天井からケーブルが垂れ下がっていた。情けなくて涙が出そうだった。


すでに何度か書いているように、そんな状況で毎日働きづめだった。夜遅くに疲れて帰宅すれば、興奮した子どもが寝ずに泣き叫んでいる。ビールだけの夕食を終え、シャワーを浴びて泥のように眠った。朝は5時起きで、薄暗い中を憂鬱に家を出た。


職場では、バカ所属長が支離滅裂な要求を出し、言われた通りに働くも「そんなことを言った覚えはない!」と前言を翻し怒鳴りつけてくる。毎日その繰り返しだった。何度目かには指示されたメールや当人の書いたメモを保存しておいて野郎に突きつけてやったことがあるが、火にガソリンで逆ギレされた。最近、某女性国会議員の暴言が話題になったが、私の職場ではあんなのは日常茶飯事であった(さすがに身体的な暴力は振るわれなかったが)。


私の隣りのナイーブな直属の主任上司はバカの所属長からの暴言を気に病んで3ヶ月休職し、その仕事が全部私に振ってきた。彼は突然何の前触れもなく休み出したので仕事の引き継ぎもできなかった。彼のメールを見ることもできないので取り引きがあったと思われる業者すべてにメールして、進ちょく状況を聴いて私が引き継いだ。4週間後、「鬱」で3ヶ月休職するという短い連絡が彼の妻から来た。


それからほどなくして、今度は私のほぼ直属の部下がいなくなった。例のバカ上司が服務違反だというあらぬ疑いをかけ、出勤できない状況に追いやったのだ。彼は1年3ヶ月以上経った今でも復帰できていない。



私は、これらが立派な犯罪だと思っている。



人間の尊厳を傷付ける犯罪だと思っている。「あいつみたいにお前も鬱にしてやろうか」「この職場にはお前の存在価値がない」「早く退職届けを書け」「お前は犯罪者だ」(貴様こそ犯罪者だ!)・・・私の忠告で被害者の同僚はみなスマホで録音するようになった。みんなで協力して集めた暴言集がこれだ。私に対するバカ上司の発言は数年間分ICレコーダーで全部録音してやった。本当は布川先生のジャズギターレッスンを録音するために買った高性能レコーダーだったが、可哀そうに、気の狂ったおっさんの怒鳴り声を録音する羽目になったのだ。今でも皆さんに、高音質のパワハラ音声をハイレゾ仕様で(笑)配信してお聞かせすることができる。友人の某大手新聞記者にも言われたが、けっこうなスキャンダルになるだろう。弁護士に相談した同僚は1人や2人ではない。私も時間ができたら現在の職場の無料の弁護士相談に行こうと今でも考えている。しかしきっと告発されて逆に困る無実の善良な人たちも大勢いるのだ。私のいた職場はそういうところだ。そして今もバカ上司は元の職場で頂点に立ち、パワハラをし続けている。


発達障害についてにわか勉強した私に言わせれば、そのバカ上司はアスペルガーであり、双極性障害であった。自分の発言を覚えてなかったり、異常に小さな物事にこだわったり、自分の好悪で人事を決め、適正のない者を重用した。本当に力のある真面目で正直な人間はみんな干された。もはや職場は崩壊していた。クレームの数は支所全体でトップだったようだ。けれども、そのくそったれ上司は権力がありすぎて他に置き場所がなく、我々は上層部に見捨てられたのだ。



そんなわけで、家では息子が泣き叫び、職場ではバカ上司が暴れていた。気が狂いそうだった。



私にとって、未来は絶望だった。気が付いたら後頭部に10円ハゲが出来ていた。

10円ハゲ

馴染みの皮膚科に行くと「円形脱毛症は絶対に治りますよ、頑張りましょう!」とまさに励まされた(涙が出そうなくらい良い先生なのだ)。けれでも、失恋したときのように死のうとは考えなかった。妻子ある自分にとって、山手線で首を飛ばすなどという無責任な考えはもはや許されない。


他の被害者の同僚達は、あまりの強大な権力にひれ伏し、従順な家畜のようにただただ日々搾取され続けていた。




ところが、私は諦めが悪かった。




以前書いたように、短気で向こう見ずで執念深い私は、このパワハラ上司をブッ飛ばしてやろう、ついでにもっと待遇の良いところに転職して、ギャフンと言わせてやろうと考えた。虐げられた者の怒りを、今こそ見せつけてやるときだった。

(続く)
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