音楽好きの世迷い言
The melody at night, with you
発達障害と向き合う①〜自分編〜
2017-08-10-Thu  CATEGORY: コラム
仕事がヒマ(?)になったせいか、これからは音楽レビュー以外の話題もブログらしく書いていこうと考えている。長くなるが、これから書く私のこの体験談が、読者の皆さんのなにかのお役に立てれば幸いである。ちなみに音楽の話題はほとんど出て来ないので、それを期待される方はここで読むのを止められるとよい。また、今までのブログからかけ離れてかなり重い話になるので、タイトルを見て興味の湧かない方も、同様に読まれるのをご遠慮されたい。




私が自分に発達障害があると自覚したのは、ここ数年のことだ。




「大人の発達障害」が昨今話題になっているが、社会人になってから薄々自分がそうではないかと長いこと思っていた。思い返すと、幼い頃から他の人が当たり前に出来ることが私には出来ないのだ。とてつもない劣等感を抱えながらこれまでの人生を生きてきた。


人によってタイプは違うらしいが、私の場合はひと言で言うと「のび太型」である。主に、


①片付けられない
②集中力が続かない
③段取りを立てられない
④不注意による重大なミスが異常に多い
⑤やるべきことを後回しにしてしまう


である。音楽レビューなんぞ書いていることからも皆さんお分かりの通り、こだわりの強い私はある程度のアスペルガー(現在は自閉症スペクトラムというのが正しいらしいが)も複合していると思われるが、そこは今回の話での主題にはしない。



昔から片付けが出来なかった。部屋が汚いが、見栄っ張りなので友人を呼ぶときは綺麗にした。一人暮らしの時はダニとホコリのアレルギーによる鼻炎に悩まされたが、部屋を片付けられないのが原因だったとわかったのは潔癖症の嫁と結婚してからだった。



勉強もしなかった。人の話が聴けないので中高の授業中は苦痛で仕方なく、寝てるかギターのエクササイズフレーズをTAB譜で書いて考えてるかのどちらかだった。宿題は締め切りギリギリに答えを写して提出した。よく先生に怒鳴られた。家でも一応机には向かうが、食後は寝てしまった。数ページだけ使ったノートが何冊も残った。進研ゼミもZ会にも予備校にも通ったが続かなかった。唯一、数学だけは熱中して難しい問題を来る日も来る日も考え続けた。「大学への数学」という受験数学雑誌の「学力コンテスト」に応募して、成績優秀者に名前が載ったこともある(このようなところに私のアスペ的な傾向が垣間見える)。

15分しか記憶の続かない数学者の「博士の愛した数式」という物語があるが、私のやる気も15分しか続かなかった。学問もスポーツも何もかも積み重ねることができず、興味のあること(ギターや音楽、数学)には熱中するが、それ以外のことは(社会常識も含め)なにも学ばず高校を卒業した。当然大学には受からず、浪人した。予備校に籍を置いたが、ちょうどW杯の頃で、講義には出ず代ゼミ札幌校の隣りのゲーセンでひたすらサッカーゲームをしていた。そのゲーセンで一二を争うほど強かったが流石に焦り始め、唯一やる気になった数学だけ勉強し、なんとか大学に引っかかった。



大学時代は授業に出ず、ひたすらサークルの部室とライヴハウスとレコード屋に入り浸っていた。田舎者が上京して一番好きになった街は御茶ノ水と神保町。本も楽器もレコードもラーメン屋も、私の好きなものがすべてある。女性の少ない数学科で女っけはなかったが、とにかく音楽に没頭していて幸せだった。自分よりギターが上手い人間はたくさんいたし、曲を書く才能もなかったからプロになろうなんて微塵も考えなかった(仲間で一番上手かった奴はプロになってアメリカに渡り、この春逆輸入で来日した)。専門科目の成績はほとんどすべて最低の「可」だった。進級した中では理論的にビリの成績だと誰かに言われた。それで1度も留年しなかったのはある意味凄いと友人から褒められたりもした。熱しやすく冷めやすいため、学問的な素養の積み重ねは何もなくその場しのぎで試験を乗り越え続けた。そんなこんなで卒業したが、まだまだ遊びたくて(注:女遊びではなく音楽遊び)モラトリアムの極みで大学院に進むことにした(ちょうど私の年代から大学院に入りやすくなったのだ)。組織というものに思い入れがないのと飽きっぽいのとで、院からは所属大学を変えた。院試の勉強も音楽を聴きながら1日4~5時間くらいの勉強と(「今日はアルバム6枚分勉強した」などと数えていた)、持ち前の「面接対応力」で受かった。



大学院では流石に勉強しなければならなかったが、ゼミの前日に徹夜でなんとかしのいでいた。バイトやバンド活動に明け暮れ、稼いだ金をクラシックにつぎ込むようになった。大学時代よりさらに難しくなった学問にやる気が出るわけもなく、FTR223やCB400SSというバイクを乗り回し、相変わらず音楽に熱中していた。バンドのリハで吉祥寺のスタジオに行く途中、突然車線変更してきた車にぶつけられて人生で初めて救急車で運ばれた。FTR223は廃車になり、左膝には消えない傷が残った。その病院は急患の処置室の隣りが霊安室という驚愕の配置だった。いかがなものかと思ったがさすがに現在は病院ごと新しくレイアウトを変えたらしい。なぜ知っているかと言うと私の妹が今そこで薬剤師をしているからだ。不思議な縁である(「中に誰もいないのにエレベーターが動く」と言っていた)。


ところが修士1年の夏休み前くらいから、ゼミの前日の徹夜などというその場しのぎでは(当たり前だが)とても研究についていけなくなった。


心の弱い私は風邪を引くように自然に鬱に陥った(院には他にもそういう人間がけっこう居た)。この頃から心療内科に通い始めた。睡眠薬を服用しながらウィスキーを呷っても眠れない日が続く。最初は記憶が飛ぶのだが、人間の身体というのは不思議なもので、慣れると全く眠れなくなる。開き直ってプログレやクラシックを聴きながらアル中同然に夜更かしをして廃人寸前だった。けれども、研究と向き合わないと将来が開けないことはわかっていたので仕方なく歯を食いしばりながら通った。先生や先輩はゼミでは厳しかったが、みんなとても面倒見がよかったのでそのお陰でどうにか修士が取れた。何度か書いているように修論は先生が素案を書いてくれて、私はタイプして図を入れただけだ(まあ一応関連論文を読んでゼミで発表したのは私だが、何も新しい事実は出せなかったし、すべて先生のお陰だ)。



「どうやら自分はかなり他人と違うらしい」と痛烈に思わざるをえなかったのは、就職してからだった。



こういうことを書くと怒られそうだが、就活では何の対策もせず通った。筆記試験用の問題集は大量に買ったが、全部未使用でヤフオクに売った。就職に必要らしいとノー勉で受けたTOEICは450点だったが英語力は問われなかったので助かった。筆記の成績はどうだったのか知らないが、どうやら私は面接には強いらしかった。



働いてみてわかったが、社会というのはとても厳しいところだった。



毎日毎日膨大な量の仕事が降ってくる。優先順位が付けられない。やるべきことを先延ばしにしてしまう。徐々に処理仕切れなくなってくる。徐々に仕事職場のデスクの上が汚れていく。書類を整理できない。メールを分別できない。そのたびに大切な書類をシュレッダーにかけてしまう。メールを消去してしまう。見栄っ張りで他人の目だけは気になるので「こいつヤバいな」と思われる前に机の掃除をした(勿論、職場の女性達に嫌われたくなかったのもある)。自分より仕事のできない人(が稀にいるのだ)の机の上が綺麗なのを見て、「この違いはどこからきているのか」と冷や汗をかいた。


見通しを立てて動くことができない。二度寝を繰り返し、毎朝電車に滑り込む瞬間まで猛ダッシュ。しまいには乗り換えが無駄だとドアツードアの8km40分のチャリ通に変えた。浮いた定期代は支給された日に全部ユニオンかレコファンかブックオフで使った。


とにかく仕事の段取りを立てるが苦手なので、順序だてて準備をし、人を動かすことができない。叱られたくないので締め切りや納期には遅れることはそれほどなかったが、いつもギリギリ。判で押したように何度も同じ過ちを繰り返した。私は「プライドがないのがプライド」なので頭を下げることを厭わなかったせいか、周囲の人にはずいぶんと助けてもらった。最初の職場は親切な人ばかりだった。彼らに甘えて「とりあえず謝る」くせがついた(今でも自分に非があるかどうか深く考えずに謝ってしまう)。同僚は私が仕事でミスするたびにフォローしてくれたが、私は思い悩んだ。思い余って2年目に組織の無料のメンタルヘルス相談に出かけたものの、「物忘れが激しいという言葉は、忘れたことすら忘れた段階になって使いましょう」と励まされただけで終わり、その後行くのを止めた。問題は物忘れではないことはわかっていた。


その頃、4年10カ月付き合った彼女と別れることになり、死のうと思った。


自分の両親にまで紹介していたが、「好きな人ができたの」と明かされ、崖から突き落とされるような気分を味わった(ヘソの辺りがヒュッと冷たくなった)。またまた鬱に舞い戻り、山手線のホームから首だけ出してすぽーんと死ぬことを何度も考えたが、多くの知人女性の助けを借りてなんとか乗り切った(その時は酷いことをたくさんしたと思う)。来る日も来る日も合コンに明け暮れ、4日連続違う女性達と飲み会に繰り出したりしていた。小さい頃の「ピアノの先生と結婚する」夢をかなえるべく、某女子大ピアノ科卒の女性とたくさん合コンしたが、ある女性と初デートの時に「銀座のライオンで待ち合わせね」と言われ、「変なとこ指定するなあ」と思ってビアホールの銀座ライオン前で立ってたらいつまで経っても相手が来ず、「三越前のライオン像よ!」と電話が来る始末で、まあ住む世界が違った。結局合コンでは芽が出ず、ジャズ絡みで嫁と出会い、結婚した(不思議な縁で、嫁の親友の妹は私の高校時代の同級生だ)。ジャズのセッションは「大人の部活動」みたいな感じで、たくさんの男女の出会いがあった。我々を含めて10組くらい(!)が結婚したが、そのうち半分は離婚し、またその半分が仲間内で再婚した。なかなかすごいことだ。ともかく、私はジャズには足を向けて寝られない。



そんな私が否応なしに自分の発達障害と向き合わねばならなくなったのは、結婚して子どもが生まれてからだ。




息子が生まれて来月で5歳になる。生まれてからの3年半は苦難の連続だった。私は常々、こんな自分の子どもは障害をもって生まれてくるのではないかと、漠然とした不安を抱えていた。



果たして子どもが生まれてくると、無呼吸発作を2度起こして死にかけた。



生まれた直後、病室へ連れてこられた息子を初めてこの胸に抱いていたとき、彼が微塵も動かずどんどんその顔が紫色になっていくのを見て「生まれたての赤ん坊とはこんなものなのだろうか」と思いつつ、やはりおかしいと不安が頂点に達したときにたまたま婦長さんが入室して「あらま」と泣かせて呼吸をさせてくれて事なきを得た(我々を動揺させないよう振る舞った婦長さんはさすがである)。念のためとセンサーを付けたその夜も発作を起こし、県立病院に入院することになった。誕生日の翌日に救急車でNICUに運ばれていく息子を見て妻と二人で泣いた。私の真骨頂はここからである。



救急車で運ばれる息子を追いかけなければならない。妻の実家で里帰り出産をしたので義父に車を借りて子どもの病院に向かったが、県立病院と県立大学病院を間違ったのだ。



症状が重いので何となく大学病院だと思い込んだ。不慣れな嫁の実家の地理ということもあったが、本当は10分で着くはずなのに、乗ってしまった高速が渋滞して降りることもできず、2時間かかった(本来は高速にすら乗る必要はなかった)。やっとの思いで病院に着き、焦りながら受付で子どもの名を告げると「そんな患者は来ていない」と言う。怒りでパニック寸前の私が「俺の可哀そうな息子はどこなんだ!」と怒鳴ったところに義母から電話が来て間違いに気付いた。また2時間かけて泣きながら運転して戻った。情けなくて情けなくて死んでしまいたかった。当然のごとくNICUのドクター達は呆れており、嫁と義父母は絶句していた。義母は「子どもが大変だったから気が動転しちゃったのね」と言ってくれたが、目は笑ってなかった。



これが私である。




子どもの一大事に、救急車で運ばれた病院を間違ったのだ。今思うと完全に注意欠陥多動性障害である。この一事は私の特性のすべてを語りつくしている。自分は確実に障害があると強く自覚せざるを得なかった。


子どもが退院するまでの1週間、無理やり仕事の休みを取り義理の両親の家で暮らしたが、その時は何度も幻覚を見た。夢と現の境がなくなり、真夜中にまどろみから目が覚めたと思ったら人の顔ほどもある巨大な蜘蛛が、寝ている和室の掛け軸の裏に身を隠したのを見て何度も発狂した。



私が発狂すると書いたら、それは本当に発狂しているのだ。



小さい頃から、そう、小学校中学年くらいの頃から、風邪を引いて熱で悪夢にうなされるとよく泣き叫んで目を覚ました。その様はまさに狂人で、台所から持ち出した包丁を布団に突き立てたこともある。泣き叫んで5分もすると元に戻る。それと同時にひどく吐いた(自家中毒とよく言われた)。それも中学に入る頃から徐々に減っていった。

ところが大学1年の初めての1人暮らしの時、私はひどい風邪を引いた。熱にうなされて学生マンションの自分の部屋を飛び出して、管理人のおばあさんの部屋のドアを突然開けて飛び込んだ。おばあさんは気の狂った男が何事かを叫びながら乱入し、殺される!と思い警察を呼びかけたが、その刹那に私は正気に返った。・・・その時はいよいよ他人様に迷惑をかけたということで母親が北海道から来て謝罪と看病とをしてくれたが、「今度こそきちんと病院で診てもらうよ!」ということで精神科に行った。そこで初めて、自分が「夜驚症」(やきょうしょう)という疾患を抱えているとわかった。「脳波を調べましょう」と言われたが、自分が狂人認定されるような気がして拒否した。それ以来、夜驚症に関しての診察は受けていない。



話を子どもが生まれたときに戻す。



障害があるかもしれない、2度も死にかけた息子がNICUで入院していた数日間は本当に将来が不安だった。そしてその時、大学1年の時以来15年ぶりに夜驚症を起こしたのだ。それも、嫁の実家で。真夜中に絶望的な気分でババッと目が覚め、涙を流しながら寝泊りしていた和室を飛び出し、廊下で大声で何事かを叫んだところで正気に返った。義母はまたも「可愛い子どもが入院してるのでうなされちゃったのね」と言ってくれたが、さすがに顔は引きつっていた。嫁は「ヤバいのと結婚してしまったわ」と後に語った。


以上が私の半生である。ここに書けなかった仕事上のトラブル(ヤフーのトップに2度載ったとか、警察署で調書を取られたとか、検察官が職場まで来たとか)や、私の家族が背負った業などもあり、同じくらい長い話になるので割愛する。不幸が私を襲ってくるのか、それとも私の特異な行動が不幸を呼び込むのか?凪いだ海のような今の職場でも、順調にトラブルが起きている。どうやらそういう星の下に生まれてしまったらしい。


さて子どもが退院し、東京に戻って仕事を再開、子育てもようやく軌道に乗り始めた。35年ローンでマイホームも購入した。問題の多い自分の人生だったが、家庭を築き、ようやく平穏な人生が訪れるはずだと信じて疑わなかった。


しかし、本当に大変なのはこれからだった。


(続く)
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コメント | | 2017-08-11-Fri 21:38 [EDIT]
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Re: タイトルなし
コメントA太 | URL | 2017-08-11-Fri 23:39 [EDIT]
いつもコメントありがとうございます。返信致します。
> ①片付けられない
アラフォーに入りましたが家では未だにネクタイ、コート、ジャケット、パンツ(ズボンの方)を脱ぎっぱなし、ハンガーラックに載せたまま、という状態でいつも嫁がブチキレてます。CDレコードは整理できておらず、ジャンルも何もかもグチャグチャでピアノ物と高くてレアなレコだけはなんとか整理してあります。本は平積みで山になっており、時折崩れます。コンサータを飲むと片付けられます。
職場では机の上は綺麗ですが、配布された書類は分類もせず机の中にしまい、必要になるたびに引き出しをひっくり返す羽目に。薬を飲むとファイルに綴じて整理し始め、レコードもクリーニングして新しい袋に替え、ジャンル順に整理します。数週間しかもちませんが・・・。
> ②集中力が続かない
高校の時は本当に大変でした。センター直前の1ヶ月以外は家で3日と続けて1時間以上勉強したことはないと思います。今でも「ながら」が止みません。スマホ片手に食事、ギター抱えて読書にTVで嫁がブチキレます。
逆に熱中する時、例えば数学なんかは何時間も何十時間も飯も食わず夜も寝ずに考えました。世代が違いますが、ドラクエやFFなどのゲームにも同じように熱中しましたね。今はネットでのレコード探索ですね。
> ③段取りを立てられない
受験でも部活でも「この時までに○○時間勉強しよう、問題集を何Pやろう、トレーニングをしよう」とか計画を立てたと思います。私は計画を立てるのは好きでした。達成した時のことを色々夢想しながら楽しみました。けれども実行できないのです。他にも、料理は好きですが作ってる途中でキッチンがぐちゃぐちゃになります。段取りが立てられないから、洗い物と野菜の生ゴミ処理が同時に混在したりするのです。ADHDは料理をさせるとすぐわかるとか言いますよね。
> ④不注意による重大なミスが異常に多い
これはブログに書いたようなことです。他にも、仕事でここでは書けないミスを大量にしています。つまらない例を挙げると、職場にはフィットネスルームがあるのですが、スマホをそこに忘れたとシャワー室で気付き、取りに行く時にタオルを忘れる感じです。あとは昔、悩んでいた数学の不等式の証明で、不等号を逆にしていたのに3日間気付かなかったことでしょうか。恥ずかしくて死にそうでした。
> ⑤やるべきことを後回しにしてしまう
これがいちばん悩んでいます。コンサータを飲んでも、これはなかなか改善されないところです(中長期的な目標ではなく、すぐ目に付くことをパパッと済ませたくなってしまうため)。勉強、後回しにしすぎて今後悔しています。大学時代は脇目も振らずとにかく勉強すべきでした。仕事でも億劫な業務、例えばデータ整理系や書類提出系などの事務仕事は締め切り直前、昔は締め切りを過ぎ、2回催促されてからようやく「取りかかる」ということもありました。

程度にもよると思いますが、規模の大きい課題やタスク、例えば卒論や修論、あるいはサークルや部活などの合宿や行事、イベントなど、数ヶ月以上の時間をかけて取り組む事象があったとして、それが締め切り「直前」のギリギリになるとしたら、それは社会に出たらありえないくらいヤバいことだと思います。
特に、他人との協力が必要な場合、「準備が完璧すぎて当日は(責任者の)自分がいなくてもコトが進むくらいに周囲との段取りをしておけ」と上司に習いました。そこまでしても「穴」や「予想外のトラブル」が起きるからです。あとは自分だけ完璧でもダメ、ということですね。選択科目のレポート提出程度ならともかく、卒論などを数週間でやっつけて書くようだと社会に出て苦労するでしょう。組織というのはとても気が短いので、学生の時にこのような段取りを付けて準備する訓練を意識的にした方がよいと思います。

> 本来ならA太さんに訊かず、医療機関を訪れるのが正しいのでしょうが生憎時間がなかなか取れません。
お医者さんは本人の「困り感」がないと助言できません。また、メンタルクリニックの短い面会時間で伝えたいことを言うのは意外に難しいものです。ネットの同じようなブログを探して事例を読み、「よく考えると自分は困っている」という現象を探すとよいでしょう。
話は変わりますが、私は小さい頃から鼻炎持ちで常に鼻が詰まっており、人間にとって鼻呼吸はオマケ、口呼吸しかできないと思ってました(マジ)。映画で人質がガムテームを口に貼られるのを見て「死ぬじゃん」とか思ってました。中学の時、病院に行ってそうではないと知りました。実は自分の中で諦めていた困りの常識が、解決できるというのは大げさでなく人生が変わるほどの喜びです(鼻呼吸に部屋の整理整頓!)。
多動もそうです。コンサータを飲む事で、「あたまの中の霧がかったモヤモヤ感」「何かに取りかかる時の億劫感」が消えました。そのような「困り感」は仕事や育児で切羽詰まって事例を読んで自分で疑って悩み考えようやく言語化できるものです。薬を飲むと皿洗いや掃除機かけ、仕事のメール返信、スッと自然に身体が動きます。机も片付けないと落ち着かなく感じるようになりました。この薬は劇的に効果が現れるのが良いです。効果の中には「衝動性も改善される」とあるのですが、レコードの衝動買いだけはどうしても治りませんね。
このようなアドバイスをして誰かのお役に立つことが当該記事を書いた意図でもありましたので、参考になれば幸いです。
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