音楽好きの世迷い言
The melody at night, with you
薄毛の問題。
2017-08-19-Sat  CATEGORY: コラム
なんでも書くことにした。安っぽいハウツーブログと思われようがなんだろうが、何かのお役に立てれば本望である。



20代の後半から生え際が後退し始めた。



十数年前に亡くなった祖父は無慈悲な干ばつの襲来にお手上げだった。父親は遺伝を気にして頑張ったらしく、今でもまだ「前髪」と呼べる位置に立派に髪の毛が残っており、彼なりに努力したのだと思う。私も心配していたが、仕事のストレスと比例して白髪が急激に増え始め、同時にどんどんM字が進行し始めた。まさか20代から始まるとは・・・と、当時目の前が真っ暗になったのを覚えている。


とりあえず5000円もするシャンプーや育毛剤を試したが一切効かなかった。そんな絶望のどん底にあった私に、神はとある奇跡を遣わすのである。当時CM等でも話題になり始めた「プロペシア」である。そう、またの話だ。


IMG_20170819_174806.jpg

これもADHD治療薬「コンサータ」同様に私にはメチャクチャ効いた。今でも覚えているが、夏に向け短髪にした6月下旬から服用し始めたと思う。8月初旬には効果を実感し始めた。M字の「V」の部分に墨汁のにじみのようなフロンティアが徐々に現れ出したのだ。これには猛烈に感激した。フロンティアは次第に木々となり林となり、ついには森としてしっかり定着した。今ではかつてそこが荒廃した砂漠だったとは誰も思わないであろう漆黒の大地に生まれ変わっている。


さて、この神が遣わした奇跡の治療薬、やはりデメリットはある。副作用ではない。単純に高いのだ。保険が効かないので(行きつけの皮膚科の先生に「このような薬は未来永劫保険適用になることはありません。諦めてください」と言われた)月に8000円弱かかる!4週間分28錠だから大体1粒300円ほどもするのだ。飲み始めは律儀に毎日飲むが、高いので1ヶ月経った頃から隔日で飲むことにした。それでも私には効いた。行きつけの美容師は絶妙なタイミングで「飲み始めましたね!」と言うほどだ。結局、飲み続けたのは半年ほどだったろうか。それから2〜3年してまた薄くなり始めたので、ほぼ3年周期で服用を繰り返している。ちょうど今も服用中である(退職金を充てている泣)。


この素晴らしい薬を、すでに闘いが始まっている友人達に広めたい。しかし、「プライドがないのがプライド」の私と違い、彼らはプライドが高そうなのだ・・・直接お節介を言う勇気は私にない。だからせめてこのブログの読者の方には試してみる価値はあると訴えたいと思う。ちなみに皮膚科では液体窒素で頭皮を刺激する施術も同時に行ったが、そちらは全く効かなかった。ヒリヒリする痛みが効果を予感させたのだが、結局消えない凍傷のシミが生え際に数年残っただけであった。


そんなわけで今、私は「コンサータ」「プロペシア」「アレルギー性鼻炎の薬」(たまに)「うつ病の薬」を服用しているジャンキーである。クリーンで手間と費用のかからない人間になりたい。
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ラーメン食べ歩き記録
2017-08-17-Thu  CATEGORY: コラム
ラーメンが好きだ。


週に1度は必ずどこかで食べる。今までに食べたラーメン屋を、一覧にしてまとめようと思い立った。全く、暇というのは人間にあらぬ行動を思い立たせるものだ。ラーメンの種類か、店名順か、それとも場所で分類するか、悩んだがとりあえず適当に並べてみる。ネットで閉店が確認できたものはその旨を記載した。長いこと行っていない店もある。自分の為の備忘録的な一覧である。

満足度:100点満点で適当に付けた。
90点:その店に出かけるために用事を作りたくなる
80点:いつ食べても大抵満足できる
75点:食べて満足するか後悔するかの分岐点
70点:いつ食べても若干不満が残る
69点以下:基本的に2度と行かない

頻度:
S:月に1度は食べる
A:3カ月に1度は食べる
B:半年に1度は食べる
C:年に1度は食べる
D:1年以上行っていない
E:1・2度しか行っていない

<青葉>
中華そば青葉中野本店:85点/D
中華そば青葉池袋サンシャイン点:83点/E
中華そば青葉新宿店:85点/D
中華そば青葉北千住丸井店:85点(閉店)※ラーメン食べ歩きのきっかけを作った店

<大勝軒>
東池袋大勝軒本店:72点/E ※例の閉店ギリギリに初めて食べる。1時間半並んだ
大勝軒足立区役所前店:67点(閉店)
東池袋大勝軒 新化家(調布):59点/D

<二郎>
二郎池袋東口店:70点/D
二郎新宿歌舞伎町店:69点/E
二郎小滝橋通り店:77点/E
二郎目黒店:72点/E
二郎神田神保町店:78点/E
二郎桜台駅前店:90点/D
二郎新小金井街道店:87点/D
二郎府中店:82~93点/A
二郎立川店(休業中)85点

<二郎系インスパイア>
ラーメン富士丸神谷本店(王子神谷):77点/D
ラーメン富士丸西新井大師前店:79点/D
ラーメン富士丸板橋南町店:75点(閉店)
麺や あかつき(駒込):78点/E
ラーメン英二(北府中):76点/E
郎郎郎(調布):73点/B

<麺屋武蔵>
麺屋武蔵池袋店:84点/C
麺屋武蔵渋谷店:82点/E
麺屋武蔵新宿本店店:78点/D
麺屋武蔵高田馬場店:85点/A
麺屋武蔵吉祥寺店:83点/B

<中本ほか辛い系>
蒙古タンメン中本新宿西口店:76点/D
蒙古タンメン中本上板橋店:76点/D
旨辛ラーメン表裏水道橋店:82点/C
麺創研 紅府中店:95点/S

<その他アラカルト>
麺屋吉左右(木場):96点/E
田中商店(六町):76点/E ※ 店の最寄りが梅島駅だった移転前によく行った
武藤製麺所(竹ノ塚):86点/D
中華そば 椿(西新井):94点(閉店)
中華そば 椿(池袋):92点(閉店)
ラーメンむてっぽう西池袋店:74点/E
俺の空 池袋店:80点/E
俺の空 高田馬場店:76点/E
つけ麺屋やすべえ池袋店:79点/E
つけ麺屋やすべえ水道橋店:77点/E
めん徳二代目つじ田 御茶ノ水店:95点/D
TOKYO UNDER GROUND RAMEN 頑者(池袋):92点/A
The Outsiders(大崎):76点/E
一蘭 渋谷店:72点/E
俺の麺 春道(新宿):86点/A
くじら軒 新宿店:76点/(閉店)
つけ麺 五ノ神製作所(新宿):80点/E
つけ麺えん寺吉祥寺総本店:82点/E
めん処 本田(東十条):95点/D
燦燦斗(東十条):85点/D
中華めん処 道頓堀(成増):78点/D
味噌一 常盤台店:70点/E
moris(大山):90点/D
らーめん一番(小竹向原):79点/D
丸長 沼袋店:70点/(閉店)
無鉄砲中野店:76点/E ※ 中野店とあるが沼袋が最寄り
つけ麺花みずき(野方):82点/D
荻窪中華そば春木屋:75点/E
熊王(国領):73点/D
和屋(国領):80点/(閉店)
横浜ラーメン 武蔵家(国領):76点/B
らーめん HAGGY(柴崎):84点/E
つけめんTETSU 調布店:87点/S
たけちゃんにぼしらーめん(調布):80点/B
喜多方ラーメン坂内調布店:70点/E
横浜家系 助格屋(調布):72点/E
たから家(調布):70点/E
たつみ(調布):71点/E
らーめん愉悦処 鏡花(立川):84点/D
楽観(立川):75点/D
麺処 井の庄(立川):79点/D
江川亭小金井本店:73点/E
味麺おがわ屋(八王子):74点/E

<京都>
和醸良麺 すがり:95点/E
麺匠 たか松:82点/E

新規来訪や再訪の度に更新する予定・・・(その度に上げると鬱陶しいかな)

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発達障害と向き合う③〜臥薪嘗胆編〜
2017-08-11-Fri  CATEGORY: コラム
臥薪嘗胆が最も好きな四字熟語だというのは、口にするのがいささか憚られる。



パワハラ告発と退職・転職を心に決めた私は、始発終電で働きつつ転職先を探した。それだけが希望の光であり、私にできる最も痛快な復讐劇だった。さて、ようやく本題に入る(前置きが長すぎた)。どうやって私は自分の発達障害を乗り越えたか、である。




一言でいうと、「」だ。




とは言っても、ドラッグの類いではない。医者にはそのような説明をされたりもしたけれど(後述)。


コンサータという薬がある。


「コンサータ」で調べれば山ほど私のようなADHD患者の服用歴が出てくるので、興味のある人は読んでみて頂きたい。この記事はその山の一握の砂を提供するに過ぎない。



さて、ある時パワハラを受けつつ働きすぎていよいよこれは過労で死ぬかもしれない(倒れる、もしくは発作的に電車に飛び込んでしまう)という不安がよぎったので、駅前のメンタルクリニックに行ってみた。鬱を患ったことはあるが、今は家庭もありそんなこと言ってられず働くしかないので、長年積年のこのADHDな特性をなんとかして欲しい、と訴えた。すると先生は、大学教授のような確信的な話し方をしつつ非常に明解な話をされたのだ。以下はわたしの記憶違いもあるかもしれないし、医者の誇張もあるかもしれない。不正確であることを承知して頂いて読んで欲しい。


「コンサータとストラテラという、あなたのような注意欠陥多動の人に効く薬がある。前者は即効性があり、後者は飲み続ける必要がある。お酒を日常的に飲む貴方には前者が良いだろう。これは覚せい剤のようなもので、そのような成分だけを抽出されて悪用されないように、極めて高度な化け学の技術でそれこそハンマーで叩いても割れないくらいにコーティングされている。胃の中でゆっくりと溶け、まんべんなく半日効くように作られている。これを飲むと、神経が覚醒するので集中力が増し、ミスが劇的に減ります。遅くとも昼までには必ず服用してください。夜眠れなくなります。副作用も色々あります。それと非常に高価です」


医者とは思えない言い切った話に、私は迷わず処方してもらうことにした。以下はTwitterに書いた当時のメモである(鍵アカなので探されても見つかりません)。


視界が開け、物が立体的に見えるようになった。今まで某駅のコンコースの上の一部分がガラス張りになってるなんて、3年以上も通っていて気付かなかった。バスで職場に向かうと、建物という建物が3Dのように迫って来て恐ろしいほどだ。汚かった机の上もきちんと整理することが出来るようになり、超早起きが原因の眠気は一切跳んだ。子どもの頃から感じていた「億劫感」がパタりと消えた。イヤな仕事ほど先にやっつけた。これが普通の人なんだな、と涙が出た
40近くになって薬の力を借りて、ようやく、ようやく普通の人と同じ日常が送れるようになったのだ。



1錠数百円のコンサータで仕事のパフォーマンスは格段に上がった。毎月の少ない小遣いはレコードでなく、コンサータに消えた。土日は飲むのを控え、業務が厳しそうな日を選んで週3回ほど飲んだ。飲めば仕事のデキる男になれるのだ。出費は痛いが仕方ない。その代わり、私には副作用が凄まじかった。


出勤前の朝6時頃に飲んで1時間くらいしてから、後頭部に鈍い痛みが現れるのを合図に薬が効き始める。仕事が順調に回り出す昼前にはかなりヒドい吐き気がやってくる。なんとか昼食を胃に押し込め、全く眠気のない午後を過ごすと夕方頃に効果は消える。大体9~11時間ほど覚醒作用が持続する。効果が消えるのはそれと同時に猛烈な空腹感と倦怠感がやってくるのですぐわかる。今度はそれと闘いながら終電近くまで働く。まさにドーピングだ。毎日毎日頭痛と吐き気と闘いながら働いた。頭痛と吐き気がありながらも頭がシャキッと覚醒している、というそれまでにない経験だ。眠気が消えるというのは本当に有り難く、出張でのバスや飛行機、新幹線では大抵眠くなるものだが私はお目々パッチリのまま転職の勉強をしていた。


まだコンサータが効いているうちに飲み会に出かけたことがある。この薬を飲むと職場の階段を上り下りをするだけで動悸がして心臓が痛むのがわかるのだが、酒との同時摂取はその比ではなかった。このときは本当に死んでしまうかと思うほど大きく心臓が鳴り、飲み会の店から一歩も動けなくなってしまった。その夜は金曜の飲み会帰りの満員電車を避け、這うようにして遠回りのバスに乗り、席を譲ってもらってなんとか帰宅した。


薬の効果が劇的に作用して仕事は極めて捗った。2人分の仕事(鬱上司は戻ってきた)くらいは楽勝になっていた(どうでもいい窓際左遷部署だったせいもある)。パワハラを浴びつつ手掛けた大きなプロジェクトのプレゼンがあり、その前日は徹夜で職場に泊まった。始発で帰宅し、シャワーを浴びてすぐに出勤した。勿論、コンサータを服用した。今でもよく覚えている。それは2016年6月25日の土曜日だった。千人近くを相手に午前午後の2回を滔々と喋った。それまでの人生でいちばん頑張った24時間だったと思う。その翌日は今の職場の二次面接だった。じっとりと蒸し暑い日で、上下スーツを着て大汗をかいていたが、心は気分爽快であった。



そんなこんなで、以前書いたように転職に成功し、復讐には失敗したものの、仕事はなんとか乗り越えることができた。



さて、次に息子の話をしよう。


自分の子どもに発達障害があるのではないかと悩んでおられる方もたくさんいると思う。私もそうだった。色々人に聴き、調べ、にわか勉強をし、行動した。保育園に落ちたことは前回書いた。となると、次は幼稚園だ。数は多いが預けられる時間に制限があり、今後の就業設計が難しくなる(嫁は自営業のようなものだ)。とりあえず近所の幼稚園はすべて見学に行った。プレ保育や説明会にも顔を出し、その中で最も発達障害に理解のありそうなところを選ぶことにした。息子が生まれてくる前は、ミッション系で制服のある、お高くとまった感じの綺麗な幼稚園を考えていたが、そんな所はハナから検討外だった。残念ながら、障害児を積極的に受け入れている幼稚園は近所になかった。仕方なく、いちばん昔ながらで、ルールではなく自由な遊びを尊ぶ幼稚園を選んだ。色々な人の意見によると、「規律で縛らない園に行って自由に伸び伸び育てたほうがよい」とのことだったのでそこにしたのだ。園長が森本レオのような風体でヒョロッとした味のあるオヤジなのもポイントが高かった。



2015年の11月1日(日)、入園選考があった。


面接順は早い者勝ちで決まるらしいというママ友情報により、朝の5時に起きて幼稚園に向かった。絶対に落ちるわけにはいかない。やる気のある所をアピールしなければならない。行ってみると早朝からは並ぶなと張り紙があったので、まだ人気の無い薄暗い中を、100mほど離れた遊歩道のベンチから幼稚園を凝視し続けた。完全に変質者だ。7時を過ぎると職員がやってきて、園の前で並んでもよいというのでひたすら立ち続けた。お陰さまで一番乗りだった。そこからルイージ&MDRのマーラー第9番を聴き始めて、ちょうど終わる頃に嫁が子どもを連れてやってきて、そして門が開いた。すっかり身体は冷えきっていた。


面接官は森本レオだった。入学前から何度も通ってアピールしたので、園長も自分で面接しようと思ってくれたのだろう。息子は自分の名前を聞かれたが恥ずかしがって言えなかった。頼むからパニックは起こさないでくれと思っていたが、「じゃあリンゴはどれ?」という質問コーナーになると機嫌を悪くし始め、ついにはプイと席を立ってダダをこね始めた。園長はこちらの窮状を理解してくれた上で、「月に1度発達センターに通うこと」「障害の診断書を出すこと」(加配のための補助金が出るらしいのだ。尤も、これが原因で今年嫁が激怒するのだが・・・)というのを遠回しの条件に、入園許可をしてくれた。嬉しくてその晩は焼肉を食べに出かけたが、勿論息子は食べ過ぎて全部吐いたのは言うまでもない。



4月の入園式では、些細なことで癇癪を起こして、式に出られなかった。



私は泣き叫ぶ息子を抱いて、ホールの外で唇を噛み締めながら園長の話を遠くに聞いていた。なんとか集合写真には収まることができた。入園しても他の子が出来る事がうちの子には出来ない。自分で学習用具を用意できない。全く絵が描けない。靴下が履けない。トイレが間に合わず漏らす(小さい方)。ひとり裸足で外に飛び出して園庭で毎日泥だらけになるまで遊ぶ。嫁は毎日何時間も泥まみれの洋服を手洗いした。みんなが集中してお絵描きや図工をするときも、うちの子は座っていられず外に飛び出して行く。紙芝居なんて最初の数枚しか見たことがない(大体が私も見てられない)。


Facebookでは同年代の友人が子どもとの旅行写真をアップしたり、ジャズ仲間は子どもが生まれてからもセッションに通っている。我々には不可能だ。どう考えても不可能だ。嫁は土日仕事なので私と休みが全く合わない。たまに合う月に1度あるかないかの休みは家族でお出かけする。大抵、息子が癇癪を起こし、運が悪いとストレスで吐いてそこらを汚し、どっと疲れて帰宅する。




なんで俺ばかりこんな目に遭うんだろう。




どうして俺の人生はこんなにも過酷なんだろう。




仕事でも子育てでも、楽しく充実した人生を送っている友人がたくさんいる。




なぜ俺ばかりこんな目に遭うんだ?




・・・何度も何度も、そう思った。私が学生の頃の甘ったれた青二才のままだったら死んでしまっていたかもしれないが、今は妻子を抱えた責任ある社会人だ。歯を食いしばって生きていくしかなかった。障害があろうとなかろうと、子どもを抱えて生きて行くしかないのだ。そう、それでも愛する大切な我が子だ。




去年の夏。幼稚園に通い始めて4ヶ月、気が付けば随分と癇癪が減っていた。風邪で1日休んだ以外は一度も園を休まなかった。幼稚園が休みの日は「行きたい!」と逆に癇癪を起こすほどだった。お友達がたくさんできて、ママ友仲間と色々なところに遊びにいけるようになってきた。


次第に順番も守れるようになった。ブランコやすべり台もきちんと後ろで待っている。相変わらず自分で登園後の用意はできないが、お友達とケンカはしないし、手を出すこともない。「泣いている子がいたら大丈夫?って声をかけるんだよ」としつけたので、その通りに優しい子になりつつある。元気の良さはいちばんだ。夜遅くまで寝ないで興奮してはしゃぎ回っているから、私が遅く帰ってもお風呂に入れて上げられる。電車とトーマスとピタゴラスイッチとプラレールとアンパンマンとハンバーグが大好きだ。ジャガイモと生のキャベツ以外の野菜を全く食べず、偏食は直らないが少食の大人の女性より遥かによく食べる(そしてたまに吐く)。ほとんど風邪も引かないし、誕生直後以来、大きな病気はしたことがない。毎土日は私の定期で電車に乗ってランダムウォークするのが習慣になった。youtubeを見せていればユニオンにもなんとか連れ出せるようになった(笑)




苦労した分だけ、息子の何気ない成長が我々夫婦には嬉しかった。




そうして、我々の不安をよそに立派に年少を終え、今年の春、年中に進級した。運動会の時のことだ。雨で順延したため謎の平日開催となり、私は行けなかったが、妻が撮影したビデオには、みんなと順番を守って入場し、訳の分からないお遊戯をきちんと踊る息子がいた。途中で飽きてきて、隣りの子にドンとぶつけられ台から落ちて機嫌を悪くしたようだが、癇癪を起こす前にちゃんと幼稚園の先生がフォローしてくれた。そんな光景を見て思わず涙が溢れてきた。



潔癖の嫁の躾がたたって平均台競争ではよーいドン!の後に台の砂をキレイに払ってから走り出した。



周囲は爆笑、「面白い子がいる」と園内の話題をさらい、他の学年でも有名人になった。今年は今のところ1度だけ、昼食中にクモが出たときだけパニックになったそうだ(言い換えれば去年はたくさんあったということだ)。入園前からのママ友以外は、うちの子が発達センターに通っていることを知らない。我々が息子の強烈な癇癪で悩まされたことなど多くの人は知らない。元気の良い子だと思われているだけだ。担任の先生にも「全然手がかかりません。泣いている子がいたらすぐ呼びに来てくれます」と家庭訪問で言われた。園長は加配が欲しくて「今年も障害の診断書を採ってきて下さい」と言ってきて嫁が激怒した(実は、こんな園なのでうちの息子よりもかなり重そうな発達障害の子が他にもけっこういる)。時が経てば状況も変わるものだ。発達障害と引き換えに、なにか特殊な能力をもって生まれてはいないかと期待したが、今のところは何もない。ピアノにもギターにも興味を示さず、嫁の生徒の同い年の男の子の方がピアノを弾けるくらいだが、リズム感はいい。ウルトラマンの歌もだいぶ歌えるようになってきた。絶対音感もこれからだろう。食欲が凄まじいせいか身長は年中組でいちばんだ。


子どもの成長とは不思議なものである。勿論、幼児のワガママを遥かに超えた癇癪を起こしたり、発達センターでは未だに他の子より1年近く発達が遅れていると言われる能力の項目もある。幼稚園の遊びなら楽しくできるが、自分のイヤなことをガマンできるか?小学校に入って授業を受けられるのか?通常学級に行けるのか?心配は尽きない。


それでも、癇癪が始まった4年前の、あの将来への壮絶な不安が薄れたことは確かだ。仕事も育児も、諦めず色々考え行動してほんとうに良かったと思う。ママ友の家に泊まりで遊びに行った嫁と息子がそろそろ帰ってくる。私は昨日まで北海道に出張だったので、息子に会うのは5日ぶりだ。会ってまず彼はこう言うに違いない。




「パパ、またレコード買ってきたの?!」



(おしまい)
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発達障害と向き合う②〜息子編〜
2017-08-11-Fri  CATEGORY: コラム
息子が入院したNICUには色んな子がいた。


未熟児や、なんらかの障害を持って生まれてきた子が、ベビーベッドというか透明な容器のようなものに寝かされ、泣いたりもぞもぞ動いたりしていた。みんな一様にとても小さかった。身体にはたくさんの管がつなげられており、時折アラームが鳴るのでドキッとする。愛おしそうに透明の容器の我が子を見つめる母親が何人かいた(実の両親しか中に入ることができないのだ)。そんな中に、うちの息子も寝かされていた。


息子は小刻みに震えながら寝ていた。無呼吸の発作を抑える薬を飲み、症状が落ち着いてきたとのことだった。非常に音に敏感で、アラームが鳴るたびに目を覚まし、その方向をなんとも言えない顔で見つめていたのを思い出す。このときは、「息子が生きてさえいてくれるならそれでいい」と思っていた。けれども、人間というのは時が経つにつれて、健康という当たり前に慣れるにつれて、初心を忘れ、多くのことを望んでしまうものなのだ。



1歳になった頃、それは顕著になり始めた。



自分に気に入らないことがあると、ひっくり返って大暴れする。私がひっくり返って、と書いたらそれは文字通りひっくり返るのだ。突然自分でスッ転んで、床に頭をガンガン打ち付け、大泣きする。まだ言葉を喋れないので、泣くことだけが表現手段のはずなのだが、うちの子はとにかく身体全体を使って暴れた。



子どもが歩けるようになったら、手をつないでよちよち歩く我が子と散歩するのが夢だった。



しかし、家の外に連れ出すと、息子は私の手を振りほどき、覚束ない足取りで自らの意思で走り出した。危ないからと無理矢理手をつなごうとすると例のごとくひっくり返ってアスファルトに頭をぶつけようとする。こんな有様なので散歩は夢のまた夢(Formula 3)であった。他の親子が、テトテト歩く小さな子どもと手をつないでいるのを見るとチクリと心が痛んだ。


パニックもひどかった。スーパーに行くとお年寄りが「可愛いねえ」と声をかけてくれる。嬉しがる親もいるだろうが、我が家はノーサンキューである。息子は知らない人に話しかけられるのが苦手で、その瞬間にひっくり返って大泣きする。おばあちゃんは当惑して行ってしまう。ひどいときは同時にストレスでよく吐いた。家で吐き、スーパーで吐き、車で吐いた。公園で吐き、道端で吐いて、外食先で吐いた。そのうちにこちらも慣れるもので、いつでも吐しゃ物を受け止められるよう我々は袋を常備した。コストコ多摩境店に行ったときは大変だった。おもちゃ売り場から離れたくないと大騒ぎして泣き叫びながら商品が陳列された棚の中に隠れてしばらく出てこなかった。勿論、吐いた。安く買えるホッドドックを食べてる途中に床に落とし、「それを食べたい」と泣き叫んで暴れ、激混みのフードコートで吐いた。周りの視線が痛かった。どう見ても、普通の子どもではない。私は我が身を振り返りつつ息子の発達障害を疑った。


1歳から3歳半までの2年半は本当に大変だった。


あの時期の子育てをもう一度やれと言われたら、やれる自信はない(だから2人目なんて恐ろしくてとんでもない!)。アンパンマンの映画を見せに行く。5分と座っていられない。劇場から逃げ出し、連れ戻すと癇癪を起こして泣き叫んでひっくり返り、結局ロビーでお菓子を食べさせておしまいだ。1000人収容のホールは無料イベントということもあって子ども連れで満員だったが、逃げ出したのはうちの子ただ1人だった。

近所の幼稚園のプレ保育に通わせたが、うちの子がダントツで問題児だった。とにかくいつも癇癪を起こし、ひっくり返って泣き叫んでいた。おもちゃを取られた、お菓子を食べられた、足を踏まれた、自分が先に遊びたかったのに、、などなど、些細な理由で彼なりの怒りを爆発させた。勿論、吐瀉物付きだ。


他のママ友からの強烈な視線を浴びながら、それでも妻は強靭な精神力で息子を育てた(というか天然なのだ)。公民館で読書会や劇があれば厭わず連れ出し、息子を周囲の大人や子どもたちに慣れさせようとした。私は早い段階で息子の発達障害を疑っていたので、反対する妻を説得して自治体の発達センターに連れて行った。2歳半の時点で簡単な検査では運動能力以外の能力がほぼ1年遅れとのことだった。これから保育園を探さねばならない。こんな状態でまともに通えるのだろうか、と私は毎日思い悩んだ。



結論から言うと、保育園には落ちた。



小児科医のところに行って、「多動」という診断をもらい(ほぼこちらが言うままに書いてくれる)、障害児枠で保育園に申し込んだ(障害児を受け入れる保育園には加配があるのだ)。しかしながら、落ちた。嫁の仕事がフルタイムでないということで点数が足りなかったのだ。障害があるかもしれないのに、落ちたのだ。まさに、「保育園落ちた日本死ね」である。ちょうどあのニュースの頃で、なんて日本は住みづらいんだろうと思った。こんなうちの子を普通の幼稚園が受け入れてくれるとは思えなかった。




その頃から、職場では私に対するパワハラが苛烈さを増し始めた。




2年前の春、完全な窓際部署に左遷され、私と主任の机の隣りには業務用の特大のシュレッダーが置かれた。あまりにもデカくて強力なため、特別に電源の増強工事をしなければ使えないシロモノである。私のいた支所は秘匿文書が多いので、毎日多くの人間がひっきりなしに書類を処分しにくる。その度に「ズゴォォォォォォ」というもの凄い音が我々のデスクの周りに鳴り響く。落ち着いて仕事などできるものではない。背後にはコピー機が2台。両面コピーする「ガターンザザー」という音がとても気になる(私は音に敏感なアスペルガーなのだ)。


おまけに元は倉庫だった部屋の壁を撤去して無理矢理作ったスペースのため、エアコンの冷気が届かない。夏は猛烈に暑く、冬はメチャクチャ冷える。春先は窓を開けるのだが、なぜかみんなフロアの端っこの我々近くの窓を開けたがる。そのせいで夜になると大量の虫が机に飛んでくる。蚊もスゴい。電気式の蚊取り線香の購入をするように予算の打診をしたほどだ。さらにはパソコンのLANケーブルもデスクには届かないので、不細工に延長ケーブルが伸ばされ、昭和のつり下げ豆電球のように天井からケーブルが垂れ下がっていた。情けなくて涙が出そうだった。


すでに何度か書いているように、そんな状況で毎日働きづめだった。夜遅くに疲れて帰宅すれば、興奮した子どもが寝ずに泣き叫んでいる。ビールだけの夕食を終え、シャワーを浴びて泥のように眠った。朝は5時起きで、薄暗い中を憂鬱に家を出た。


職場では、バカ所属長が支離滅裂な要求を出し、言われた通りに働くも「そんなことを言った覚えはない!」と前言を翻し怒鳴りつけてくる。毎日その繰り返しだった。何度目かには指示されたメールや当人の書いたメモを保存しておいて野郎に突きつけてやったことがあるが、火にガソリンで逆ギレされた。最近、某女性国会議員の暴言が話題になったが、私の職場ではあんなのは日常茶飯事であった(さすがに身体的な暴力は振るわれなかったが)。


私の隣りのナイーブな直属の主任上司はバカの所属長からの暴言を気に病んで3ヶ月休職し、その仕事が全部私に振ってきた。彼は突然何の前触れもなく休み出したので仕事の引き継ぎもできなかった。彼のメールを見ることもできないので取り引きがあったと思われる業者すべてにメールして、進ちょく状況を聴いて私が引き継いだ。4週間後、「鬱」で3ヶ月休職するという短い連絡が彼の妻から来た。


それからほどなくして、今度は私のほぼ直属の部下がいなくなった。例のバカ上司が服務違反だというあらぬ疑いをかけ、出勤できない状況に追いやったのだ。彼は1年3ヶ月以上経った今でも復帰できていない。



私は、これらが立派な犯罪だと思っている。



人間の尊厳を傷付ける犯罪だと思っている。「あいつみたいにお前も鬱にしてやろうか」「この職場にはお前の存在価値がない」「早く退職届けを書け」「お前は犯罪者だ」(貴様こそ犯罪者だ!)・・・私の忠告で被害者の同僚はみなスマホで録音するようになった。みんなで協力して集めた暴言集がこれだ。私に対するバカ上司の発言は数年間分ICレコーダーで全部録音してやった。本当は布川先生のジャズギターレッスンを録音するために買った高性能レコーダーだったが、可哀そうに、気の狂ったおっさんの怒鳴り声を録音する羽目になったのだ。今でも皆さんに、高音質のパワハラ音声をハイレゾ仕様で(笑)配信してお聞かせすることができる。友人の某大手新聞記者にも言われたが、けっこうなスキャンダルになるだろう。弁護士に相談した同僚は1人や2人ではない。私も時間ができたら現在の職場の無料の弁護士相談に行こうと今でも考えている。しかしきっと告発されて逆に困る無実の善良な人たちも大勢いるのだ。私のいた職場はそういうところだ。そして今もバカ上司は元の職場で頂点に立ち、パワハラをし続けている。


発達障害についてにわか勉強した私に言わせれば、そのバカ上司はアスペルガーであり、双極性障害であった。自分の発言を覚えてなかったり、異常に小さな物事にこだわったり、自分の好悪で人事を決め、適正のない者を重用した。本当に力のある真面目で正直な人間はみんな干された。もはや職場は崩壊していた。クレームの数は支所全体でトップだったようだ。けれども、そのくそったれ上司は権力がありすぎて他に置き場所がなく、我々は上層部に見捨てられたのだ。



そんなわけで、家では息子が泣き叫び、職場ではバカ上司が暴れていた。気が狂いそうだった。



私にとって、未来は絶望だった。気が付いたら後頭部に10円ハゲが出来ていた。

10円ハゲ

馴染みの皮膚科に行くと「円形脱毛症は絶対に治りますよ、頑張りましょう!」とまさに励まされた(涙が出そうなくらい良い先生なのだ)。けれでも、失恋したときのように死のうとは考えなかった。妻子ある自分にとって、山手線で首を飛ばすなどという無責任な考えはもはや許されない。


他の被害者の同僚達は、あまりの強大な権力にひれ伏し、従順な家畜のようにただただ日々搾取され続けていた。




ところが、私は諦めが悪かった。




以前書いたように、短気で向こう見ずで執念深い私は、このパワハラ上司をブッ飛ばしてやろう、ついでにもっと待遇の良いところに転職して、ギャフンと言わせてやろうと考えた。虐げられた者の怒りを、今こそ見せつけてやるときだった。

(続く)
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発達障害と向き合う①〜自分編〜
2017-08-10-Thu  CATEGORY: コラム
仕事がヒマ(?)になったせいか、これからは音楽レビュー以外の話題もブログらしく書いていこうと考えている。長くなるが、これから書く私のこの体験談が、読者の皆さんのなにかのお役に立てれば幸いである。ちなみに音楽の話題はほとんど出て来ないので、それを期待される方はここで読むのを止められるとよい。また、今までのブログからかけ離れてかなり重い話になるので、タイトルを見て興味の湧かない方も、同様に読まれるのをご遠慮されたい。




私が自分に発達障害があると自覚したのは、ここ数年のことだ。




「大人の発達障害」が昨今話題になっているが、社会人になってから薄々自分がそうではないかと長いこと思っていた。思い返すと、幼い頃から他の人が当たり前に出来ることが私には出来ないのだ。とてつもない劣等感を抱えながらこれまでの人生を生きてきた。


人によってタイプは違うらしいが、私の場合はひと言で言うと「のび太型」である。主に、


①片付けられない
②集中力が続かない
③段取りを立てられない
④不注意による重大なミスが異常に多い
⑤やるべきことを後回しにしてしまう


である。音楽レビューなんぞ書いていることからも皆さんお分かりの通り、こだわりの強い私はある程度のアスペルガー(現在は自閉症スペクトラムというのが正しいらしいが)も複合していると思われるが、そこは今回の話での主題にはしない。



昔から片付けが出来なかった。部屋が汚いが、見栄っ張りなので友人を呼ぶときは綺麗にした。一人暮らしの時はダニとホコリのアレルギーによる鼻炎に悩まされたが、部屋を片付けられないのが原因だったとわかったのは潔癖症の嫁と結婚してからだった。



勉強もしなかった。人の話が聴けないので中高の授業中は苦痛で仕方なく、寝てるかギターのエクササイズフレーズをTAB譜で書いて考えてるかのどちらかだった。宿題は締め切りギリギリに答えを写して提出した。よく先生に怒鳴られた。家でも一応机には向かうが、食後は寝てしまった。数ページだけ使ったノートが何冊も残った。進研ゼミもZ会にも予備校にも通ったが続かなかった。唯一、数学だけは熱中して難しい問題を来る日も来る日も考え続けた。「大学への数学」という受験数学雑誌の「学力コンテスト」に応募して、成績優秀者に名前が載ったこともある(このようなところに私のアスペ的な傾向が垣間見える)。

15分しか記憶の続かない数学者の「博士の愛した数式」という物語があるが、私のやる気も15分しか続かなかった。学問もスポーツも何もかも積み重ねることができず、興味のあること(ギターや音楽、数学)には熱中するが、それ以外のことは(社会常識も含め)なにも学ばず高校を卒業した。当然大学には受からず、浪人した。予備校に籍を置いたが、ちょうどW杯の頃で、講義には出ず代ゼミ札幌校の隣りのゲーセンでひたすらサッカーゲームをしていた。そのゲーセンで一二を争うほど強かったが流石に焦り始め、唯一やる気になった数学だけ勉強し、なんとか大学に引っかかった。



大学時代は授業に出ず、ひたすらサークルの部室とライヴハウスとレコード屋に入り浸っていた。田舎者が上京して一番好きになった街は御茶ノ水と神保町。本も楽器もレコードもラーメン屋も、私の好きなものがすべてある。女性の少ない数学科で女っけはなかったが、とにかく音楽に没頭していて幸せだった。自分よりギターが上手い人間はたくさんいたし、曲を書く才能もなかったからプロになろうなんて微塵も考えなかった(仲間で一番上手かった奴はプロになってアメリカに渡り、この春逆輸入で来日した)。専門科目の成績はほとんどすべて最低の「可」だった。進級した中では理論的にビリの成績だと誰かに言われた。それで1度も留年しなかったのはある意味凄いと友人から褒められたりもした。熱しやすく冷めやすいため、学問的な素養の積み重ねは何もなくその場しのぎで試験を乗り越え続けた。そんなこんなで卒業したが、まだまだ遊びたくて(注:女遊びではなく音楽遊び)モラトリアムの極みで大学院に進むことにした(ちょうど私の年代から大学院に入りやすくなったのだ)。組織というものに思い入れがないのと飽きっぽいのとで、院からは所属大学を変えた。院試の勉強も音楽を聴きながら1日4~5時間くらいの勉強と(「今日はアルバム6枚分勉強した」などと数えていた)、持ち前の「面接対応力」で受かった。



大学院では流石に勉強しなければならなかったが、ゼミの前日に徹夜でなんとかしのいでいた。バイトやバンド活動に明け暮れ、稼いだ金をクラシックにつぎ込むようになった。大学時代よりさらに難しくなった学問にやる気が出るわけもなく、FTR223やCB400SSというバイクを乗り回し、相変わらず音楽に熱中していた。バンドのリハで吉祥寺のスタジオに行く途中、突然車線変更してきた車にぶつけられて人生で初めて救急車で運ばれた。FTR223は廃車になり、左膝には消えない傷が残った。その病院は急患の処置室の隣りが霊安室という驚愕の配置だった。いかがなものかと思ったがさすがに現在は病院ごと新しくレイアウトを変えたらしい。なぜ知っているかと言うと私の妹が今そこで薬剤師をしているからだ。不思議な縁である(「中に誰もいないのにエレベーターが動く」と言っていた)。


ところが修士1年の夏休み前くらいから、ゼミの前日の徹夜などというその場しのぎでは(当たり前だが)とても研究についていけなくなった。


心の弱い私は風邪を引くように自然に鬱に陥った(院には他にもそういう人間がけっこう居た)。この頃から心療内科に通い始めた。睡眠薬を服用しながらウィスキーを呷っても眠れない日が続く。最初は記憶が飛ぶのだが、人間の身体というのは不思議なもので、慣れると全く眠れなくなる。開き直ってプログレやクラシックを聴きながらアル中同然に夜更かしをして廃人寸前だった。けれども、研究と向き合わないと将来が開けないことはわかっていたので仕方なく歯を食いしばりながら通った。先生や先輩はゼミでは厳しかったが、みんなとても面倒見がよかったのでそのお陰でどうにか修士が取れた。何度か書いているように修論は先生が素案を書いてくれて、私はタイプして図を入れただけだ(まあ一応関連論文を読んでゼミで発表したのは私だが、何も新しい事実は出せなかったし、すべて先生のお陰だ)。



「どうやら自分はかなり他人と違うらしい」と痛烈に思わざるをえなかったのは、就職してからだった。



こういうことを書くと怒られそうだが、就活では何の対策もせず通った。筆記試験用の問題集は大量に買ったが、全部未使用でヤフオクに売った。就職に必要らしいとノー勉で受けたTOEICは450点だったが英語力は問われなかったので助かった。筆記の成績はどうだったのか知らないが、どうやら私は面接には強いらしかった。



働いてみてわかったが、社会というのはとても厳しいところだった。



毎日毎日膨大な量の仕事が降ってくる。優先順位が付けられない。やるべきことを先延ばしにしてしまう。徐々に処理仕切れなくなってくる。徐々に仕事職場のデスクの上が汚れていく。書類を整理できない。メールを分別できない。そのたびに大切な書類をシュレッダーにかけてしまう。メールを消去してしまう。見栄っ張りで他人の目だけは気になるので「こいつヤバいな」と思われる前に机の掃除をした(勿論、職場の女性達に嫌われたくなかったのもある)。自分より仕事のできない人(が稀にいるのだ)の机の上が綺麗なのを見て、「この違いはどこからきているのか」と冷や汗をかいた。


見通しを立てて動くことができない。二度寝を繰り返し、毎朝電車に滑り込む瞬間まで猛ダッシュ。しまいには乗り換えが無駄だとドアツードアの8km40分のチャリ通に変えた。浮いた定期代は支給された日に全部ユニオンかレコファンかブックオフで使った。


とにかく仕事の段取りを立てるが苦手なので、順序だてて準備をし、人を動かすことができない。叱られたくないので締め切りや納期には遅れることはそれほどなかったが、いつもギリギリ。判で押したように何度も同じ過ちを繰り返した。私は「プライドがないのがプライド」なので頭を下げることを厭わなかったせいか、周囲の人にはずいぶんと助けてもらった。最初の職場は親切な人ばかりだった。彼らに甘えて「とりあえず謝る」くせがついた(今でも自分に非があるかどうか深く考えずに謝ってしまう)。同僚は私が仕事でミスするたびにフォローしてくれたが、私は思い悩んだ。思い余って2年目に組織の無料のメンタルヘルス相談に出かけたものの、「物忘れが激しいという言葉は、忘れたことすら忘れた段階になって使いましょう」と励まされただけで終わり、その後行くのを止めた。問題は物忘れではないことはわかっていた。


その頃、4年10カ月付き合った彼女と別れることになり、死のうと思った。


自分の両親にまで紹介していたが、「好きな人ができたの」と明かされ、崖から突き落とされるような気分を味わった(ヘソの辺りがヒュッと冷たくなった)。またまた鬱に舞い戻り、山手線のホームから首だけ出してすぽーんと死ぬことを何度も考えたが、多くの知人女性の助けを借りてなんとか乗り切った(その時は酷いことをたくさんしたと思う)。来る日も来る日も合コンに明け暮れ、4日連続違う女性達と飲み会に繰り出したりしていた。小さい頃の「ピアノの先生と結婚する」夢をかなえるべく、某女子大ピアノ科卒の女性とたくさん合コンしたが、ある女性と初デートの時に「銀座のライオンで待ち合わせね」と言われ、「変なとこ指定するなあ」と思ってビアホールの銀座ライオン前で立ってたらいつまで経っても相手が来ず、「三越前のライオン像よ!」と電話が来る始末で、まあ住む世界が違った。結局合コンでは芽が出ず、ジャズ絡みで嫁と出会い、結婚した(不思議な縁で、嫁の親友の妹は私の高校時代の同級生だ)。ジャズのセッションは「大人の部活動」みたいな感じで、たくさんの男女の出会いがあった。我々を含めて10組くらい(!)が結婚したが、そのうち半分は離婚し、またその半分が仲間内で再婚した。なかなかすごいことだ。ともかく、私はジャズには足を向けて寝られない。



そんな私が否応なしに自分の発達障害と向き合わねばならなくなったのは、結婚して子どもが生まれてからだ。




息子が生まれて来月で5歳になる。生まれてからの3年半は苦難の連続だった。私は常々、こんな自分の子どもは障害をもって生まれてくるのではないかと、漠然とした不安を抱えていた。



果たして子どもが生まれてくると、無呼吸発作を2度起こして死にかけた。



生まれた直後、病室へ連れてこられた息子を初めてこの胸に抱いていたとき、彼が微塵も動かずどんどんその顔が紫色になっていくのを見て「生まれたての赤ん坊とはこんなものなのだろうか」と思いつつ、やはりおかしいと不安が頂点に達したときにたまたま婦長さんが入室して「あらま」と泣かせて呼吸をさせてくれて事なきを得た(我々を動揺させないよう振る舞った婦長さんはさすがである)。念のためとセンサーを付けたその夜も発作を起こし、県立病院に入院することになった。誕生日の翌日に救急車でNICUに運ばれていく息子を見て妻と二人で泣いた。私の真骨頂はここからである。



救急車で運ばれる息子を追いかけなければならない。妻の実家で里帰り出産をしたので義父に車を借りて子どもの病院に向かったが、県立病院と県立大学病院を間違ったのだ。



症状が重いので何となく大学病院だと思い込んだ。不慣れな嫁の実家の地理ということもあったが、本当は10分で着くはずなのに、乗ってしまった高速が渋滞して降りることもできず、2時間かかった(本来は高速にすら乗る必要はなかった)。やっとの思いで病院に着き、焦りながら受付で子どもの名を告げると「そんな患者は来ていない」と言う。怒りでパニック寸前の私が「俺の可哀そうな息子はどこなんだ!」と怒鳴ったところに義母から電話が来て間違いに気付いた。また2時間かけて泣きながら運転して戻った。情けなくて情けなくて死んでしまいたかった。当然のごとくNICUのドクター達は呆れており、嫁と義父母は絶句していた。義母は「子どもが大変だったから気が動転しちゃったのね」と言ってくれたが、目は笑ってなかった。



これが私である。




子どもの一大事に、救急車で運ばれた病院を間違ったのだ。今思うと完全に注意欠陥多動性障害である。この一事は私の特性のすべてを語りつくしている。自分は確実に障害があると強く自覚せざるを得なかった。


子どもが退院するまでの1週間、無理やり仕事の休みを取り義理の両親の家で暮らしたが、その時は何度も幻覚を見た。夢と現の境がなくなり、真夜中にまどろみから目が覚めたと思ったら人の顔ほどもある巨大な蜘蛛が、寝ている和室の掛け軸の裏に身を隠したのを見て何度も発狂した。



私が発狂すると書いたら、それは本当に発狂しているのだ。



小さい頃から、そう、小学校中学年くらいの頃から、風邪を引いて熱で悪夢にうなされるとよく泣き叫んで目を覚ました。その様はまさに狂人で、台所から持ち出した包丁を布団に突き立てたこともある。泣き叫んで5分もすると元に戻る。それと同時にひどく吐いた(自家中毒とよく言われた)。それも中学に入る頃から徐々に減っていった。

ところが大学1年の初めての1人暮らしの時、私はひどい風邪を引いた。熱にうなされて学生マンションの自分の部屋を飛び出して、管理人のおばあさんの部屋のドアを突然開けて飛び込んだ。おばあさんは気の狂った男が何事かを叫びながら乱入し、殺される!と思い警察を呼びかけたが、その刹那に私は正気に返った。・・・その時はいよいよ他人様に迷惑をかけたということで母親が北海道から来て謝罪と看病とをしてくれたが、「今度こそきちんと病院で診てもらうよ!」ということで精神科に行った。そこで初めて、自分が「夜驚症」(やきょうしょう)という疾患を抱えているとわかった。「脳波を調べましょう」と言われたが、自分が狂人認定されるような気がして拒否した。それ以来、夜驚症に関しての診察は受けていない。



話を子どもが生まれたときに戻す。



障害があるかもしれない、2度も死にかけた息子がNICUで入院していた数日間は本当に将来が不安だった。そしてその時、大学1年の時以来15年ぶりに夜驚症を起こしたのだ。それも、嫁の実家で。真夜中に絶望的な気分でババッと目が覚め、涙を流しながら寝泊りしていた和室を飛び出し、廊下で大声で何事かを叫んだところで正気に返った。義母はまたも「可愛い子どもが入院してるのでうなされちゃったのね」と言ってくれたが、さすがに顔は引きつっていた。嫁は「ヤバいのと結婚してしまったわ」と後に語った。


以上が私の半生である。ここに書けなかった仕事上のトラブル(ヤフーのトップに2度載ったとか、警察署で調書を取られたとか、検察官が職場まで来たとか)や、私の家族が背負った業などもあり、同じくらい長い話になるので割愛する。不幸が私を襲ってくるのか、それとも私の特異な行動が不幸を呼び込むのか?凪いだ海のような今の職場でも、順調にトラブルが起きている。どうやらそういう星の下に生まれてしまったらしい。


さて子どもが退院し、東京に戻って仕事を再開、子育てもようやく軌道に乗り始めた。35年ローンでマイホームも購入した。問題の多い自分の人生だったが、家庭を築き、ようやく平穏な人生が訪れるはずだと信じて疑わなかった。


しかし、本当に大変なのはこれからだった。


(続く)
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